戦前の最後の恐れも知らずに国民の為の議会政治を通した議員、斎藤隆夫

兵庫県豊岡市出石町中村に斎藤八郎右衛門の次男として生まれる。8歳になり福住小学校に入学したが、12歳の頃「なんとしても勉強したい」という一念から京都の学校で学ぶことになった。ところが彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきた。その後、農作業を手伝った。

21歳の冬に、東京まで徒歩で移動する[2]。上京後は後に徳島県知事である桜井勉の書生となる。1891年(明治24年)9月に東京専門学校(現・早稲田大学)行政科に入学、1894年(明治27年)7月に同校同学科を首席で卒業。同年判事検事登用試験(現・司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。その後、アメリカのイェール大学法科大学院に留学し公法や政治学などを学ぶ。

帰国後の1912年(明治45年・大正元年)に立憲国民党より総選挙に出馬、初当選を果たす。以後、1949年(昭和24年)まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。第二次世界大戦前は立憲国民党・立憲同志会・憲政会・立憲民政党と非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。この間、浜口内閣では内務政務次官、第2次若槻内閣では法制局長官を歴任している。

腹切り問答を行った浜田国松や人民戦線事件で検挙される加藤勘十とともに反ファシズムの書籍を出したり卓越した弁舌・演説力を武器にたびたび帝国議会で演説を行って満州事変後の軍部の政治介入、軍部におもねる政治家を徹底批判するなど立憲政治家として軍部に抵抗した。

1935年(昭和10年)1月22日、「岡田内閣の施政方針演説に対する質問演説」で「陸軍パンフレット」[3]と軍事費偏重を批判。
1936年(昭和11年)5月7日(第69特別帝国議会)、「粛軍演説」(「粛軍に関する質問演説」)を行った。
国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日(第73帝国議会)、「国家総動員法案に関する質問演説」を行った。
1940年(昭和15年)2月2日(第75帝国議会)、「反軍演説」(「支那事変処理中心とした質問演説」)を行った。
反軍演説が軍部、及び軍部との連携・親軍部志向に傾斜していた議会内の諸党派勢力(政友会革新派(中島派)、社会大衆党、時局同志会など)より反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名された。しかし1942年(昭和17年)総選挙では軍部などからの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし衆議院議員に返り咲く。

第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を逃れ総務委員として党を代表する立場となり翌1946年(昭和21年)に第1次吉田内閣の国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部総裁[5])として初入閣する。

1947年(昭和22年)3月には民主党の創立に参加、同年6月に再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し1948年(昭和23年)3月に一部同志とともに離党。日本自由党と合体して民主自由党の創立に参加、翌年心臓病と肋膜炎を併発し死去。享年79。

故郷の出石に記念館「静思堂」がある。

反軍演説

斎藤によれば、演説の要点は以下の通りである

第一は、近衛声明なるものは事変処理の最善を尽したるものであるかどうか
第二は、いわゆる東亜新秩序建設の内容は如何なるものであるか
第三は、世界における戦争の歴史に徴し、東洋の平和より延(ひ)いて世界の平和が得らるべきものであるか
第四は、近く現われんとする支那新政権に対する数種の疑問
第五は、事変以来政府の責任を論じて現内閣に対する警告等
「演説中小会派より二、三の野次[5]が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記している[6]。そして、「しかし、議場には何となく不安の空気が漂うているように感ぜられた」と付け加えている。 演説当日の具体的様子として斎藤は、「時局同志会や社民党[7]から私の演説は聖戦の目的を冒涜するものであるという意味の声明を発するようである」と記している。

演説直後、陸軍大臣の畑俊六は「なかなかうまいことを言うもんだな」と感心していたという。また政府委員として聞いていた武藤章(陸軍軍務局長)や鈴木貞一(興亜院政務部長)も「斎藤ならあれぐらいのことは言うだろう」と顔を見合わせて苦笑していたという[8]。

また、衆議院議長で、身内の民政党の小山松寿は斎藤の演説中に「聖戦の美名云々」などのメモを記し、衆議院書記官長[9]大木操に渡し、職権により、演説全体の3分の2程度、約1万字にも及ぶ、軍部批判にあたる箇所を削除させた。大木は抵抗したものの小山に屈し、「私はこの時職を賭して戦うべきであった」とのち、日記で悔いている。なお、大木は秘密会の議事録を、陸軍の焼却要求から守り抜き、日記で斎藤除名の様子を詳細に記述するなど、当問題についての貴重な史料となっている。また、斎藤の演説の全文が新聞各紙の一部地域向けの紙面に掲載されたため、反軍演説が各地に報道されることになった。更に外電で配信され、交戦国の中華民国で大きく報道され、アメリカでも報道された[10]。

除名


民政党は、翌日3日早朝、小泉又次郎(党常任顧問)や俵孫一(党主任総務)が斎藤に離党勧告を出すことで事態収拾を図り、斎藤は党に影響を及ぼすのであれば、やむをえないとして、受諾。また、総裁町田忠治の意向を受けていたとされる同僚議員から、自発的に議員辞職をするよう促されたが、断固拒否した。

反軍演説の翌日の院内の様子を、斎藤はこのように描写する。

Be the first to comment

Leave a Reply

Your email address will not be published.


*


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください